日米協調路線と日本の役割

このようなアジアの情勢がもたらされる上で、日米協調路線、とくにアメリカのアジア政策を補完する日本の役割は、どう評価したらよいのだろうか。まずハッキリしていることは、東アジアの経済発展の過程が、アメリカ、日本を中心にした西側経済との関係を深める過程と一致していることである。各国が推進した輸出指向型開発戦略自体、これら諸国経済を西側経済に組み込むことを前提としてのみ、有効になるものである。

日本は、1960年代以降、アメリカとともに東アジアへの経済的進出を着々と進めた。このように、進出側と受入れ側との思惑が合致したことが、東アジア経済の発展の原動力となった。同時に、日米資本主導の経済開発は、極力、経済的合理性を追求した。その結果、東アジア諸国の国内に様々な歪みを生み出してきた。ゆえに、これら諸国、国民の日本に対する感情ご認識を規定する重要な要因となってきている。

日本の行動は、本質的にアメリカの政策、方針を支持し、補うものとして展開されてきた。しかし、それにもかかわらず、アメリカに対するよりも日本に対する批判・反発の方が、時に強烈な形で表面化するのは、決して偶然ではない。それだけに私たちとしては、対アジア政策において、日本がアメリカの方針に従うだけでよいのかという疑問を感じずにはすまされない。

以上のように戦後日本の対米協調路線のバランス・シートをまとめるとき、以下の結論は不可避だろう。すなわち、日米関係は決して絶対的なものではなく、これまでにも批判的に検討されて然るべき問題が多々あった。ましてや、日米安保体制を基軸とする従来の関係を将来にわたって無批判に継続していくという判断が、自明なこととして受けいれられるようなことがあってはならない、ということである。

外務省にいた長い期間を通じ、省内では、安保条約については、ごく一部の限られた専門家以外は発言することすらためらわれる微妙な問題だという雰囲気があった。中国の指導者に対し、「日中関係ゆえに日米関係を損なうことはできない」、「日米が第一、日中は第二」という趣旨の発言をすることは、田中首相毛沢東周恩来と会談して以来、少なくとも中曽根首相と胡耀邦との会談まで続いてきた。

日米経済摩擦、日米軍事協力にみられる日本政府のアメリカ側要求に対する一方的譲歩のつみ重ねは、「日米関係を損なってはならない」という確信に縛られた指導者たちの存在を考慮してはじめて理解できる。ロンドンに滞在していたとき、西欧諸国の対米政策、姿勢を興味深く眺めた。日本と同じように、いや、日本以上にアメリカの核抑止力を含む軍事力に依存する政策をとるこれら諸国が、レーガン政権の外交上の拙劣さに公然と批判を加える状況は、とても日本では想像もできない情景だった。

当時は、イランとの人質事件に関し、東京サミット(1986年)での強硬な公式的政策とイランとの裏取引きというアメリカの矛盾極まる行動に、西欧世論の批判が大変な盛りあがりをみせた。また、レーガンが、ゴルバチョフとのレイキャビック・サミット(1986年)で、核全廃という構想にいったんは応じ、アメリカの対西欧核・コミットメントの信頼性に根強い不安を抱く西欧諸国の感情をさかなでしたときには、レーガンは何をしでかすか分からないという反応まで伝えられた。

ロンドンで日本の新聞の衛星版を見ていて暗澹とした気持ちに襲われたのは、イラン人質問題にせよ、核全廃問題のレーガン発言にせよ、日本政府はほとんど反応を示さなかったことである。しかも、マスコミや世論も、正面から問題提起する姿勢を示そうとしなかった。昭和元禄の太平ムードにどっぶりつかった日本の象徴的な姿をみる思いがしたものである。