したたかな社会党

羽田にはそうした策略をめぐらすしたたかさはなかった。人を裏切るようなことは、人柄の羽田には相応しくなかった。実際、そうした羽田の人柄を買い、社会党にも支持者は少くなかった。社会党が連立与党を離脱し、政権基盤が一挙に弱体化したとき、用意していた大臣ポストを羽田自ら全て兼任しようとしたのも、「改新」問題で社会党を裏切ったことへの申し訳なさの現れであった。もっとも、羽田の「誠意」が通じるほど現実の政治は甘くはなかった。

社会党内でも、総辞職後の内閣は、右派を中心に羽田の再登板でよいという考えもあった(久保亘「連立政権の真実」)が、左派の多くは野坂のように「総辞職ということになれば、いわば墓に入るようなもので」あり、羽田には反対であった(野坂浩賢「政権」)。小沢も別の理由で反対であった。再選されたいがために総辞職し、社会党は政権復帰のきっかけとして総辞職を利用する。これでは、国民を愚弄することになるというのである(小沢一郎「語る」)。

政治家としての権謀術数をこらしたのは、何も小沢だけではなかった。水面下で続けられていた自社の接触は、この頃になると社会党の野坂らのイニシアティブで本格化した。六月二二日には、自民党および与党各党に社会党の新政権構想が提示された。

連立与党側とは、羽田内閣発足前と同様に税制改革などで対立し、協議は進展しなかったが、その間、村山の首相候補などを含め、さきがけとは政策合意が成立した。社会党はその後自民党接触する。六月二七日まで待ったものの、連立与党からの回答が得られなかったからである。野坂浩賢は、既に小沢や市川よりも「自民党の一部良識派」に親近感を感じつつあった。羽田内閣発足前に、自民党の森幹事長に「憲法を守る意識かおるか」を尋ねて、明快に「守る」との回答を得ていたからである。さきがけと社民リベラル勢力、それに自民党とで政権を担うことができる、そう思いつつあった。