ケアプランとケアマネジャー

個々の要介護者にもっとも必要とされる介護は何か、痴呆性の問題も含め、もう一度深く検討する必要があります。厚生省では二〇〇〇年度中に高齢者の介護の実態に関する調査を実施しており、その結果を踏まえ具体的な改善方法を検討中です。公正、適切な認定基準になるよう、早期改定が望まれます。

また、認定から漏れた人たちへのサービスの問題があります。介護保険の対象にならなくても福祉サービスを必要としている人は存在します。たとえば元気な高齢者であってもデイサービスを利用して仲間と楽しく遊びたい、料理をつくるのが億劫なので配食サービスを頼みたい、などです。要介護に陥ることを防止する予防対策と合わせて、福祉を求める高齢者に応えていくことも必要です。本来は、介護保険を必要としない社会が望ましいのですから。

介護保険で要介護認定が行われると、要介護者にもっともふさわしいケアプランを作成することになります。ケアプランの作成を担当するのがケアマネジャー(介護支援専門)です。鳴り物入りで養成されたケアマネジャーも、複雑な支給限度額の管理に追われ、良質なケアサービスをいかに確保するかまでは手が回っていないといわれています。

ケアプラン作成の介護報酬単価も低く、人材確保にも支障が出ているようです。適切なケアプランが要介護者の介護内容を決定します。もちろん、まだ十分なサービスメニューも量もなく、ケアプランを作成しようにもサービスを選択できないという事情もあります。

介護保険の成否を左右するのは、ケアマネジヤーがどのような役割を果たせるかということです。要介護者や家族の相談にのり、適切なケアプランをつくるためには、豊富な知識に加えて実務経験が必要です。そのため、介護支援専門員の試験を受けるには、医療や保健、福祉などの一定の実務経験が受験資格となっています。

指定金銭信託(単独運用)

指定金銭信託はおカネの運用について、たとえば貸し出しに回してくれとか有価証券の買い入れに充てるとか、また銀行へ預金ナるといったようにごくおおざっぱに指定するだけで、細かいことは信託会社に任せるものです。だから信託会社は大体任せられた範囲なら、A会社におカネを貸してもB会社の株を買ってもかまいません。もちろん、委託者は信託会社を信頼して財産の運用を任せるのですから、信託会社は貸出先や買い入れる株式、社債などについてどう運用したら一番有利かを考えて、運用するよう努めます。これには信託会社の永年の経験と知識が役に立ちます。指定金銭信託金銭信託の大部分を占めています。

これはさらに信託されたおカネをそれだけ個別に運用するか、運用方法を同じくする他の信託されたおカネといっしよに運用するかによって、単独運用(指定単)と合同運用(指定合同)に分けられます。そこでまず信託の基本的な形である「指定単」から説明することにします。

これは委託者一人一人にっいて、受託から運用を個別に行うものですから、口座によって運用成果も必ずしも同一でない実績配当の原則がつらぬかれています。しかしその半面手数もかかるので、大口の投資家に適しており、戦前は保険会社などが利用していました。ただし戦後の資金不足期にはその自由な商品のゆえに一時非常に盛んになり、ピーク時の昭和二十六年頃は金銭信託の大半を占めたこともありました。その後経済の安定化に伴って乱用の批判もあり、受託の金額や期間また配当率を自粛することになり、高利回りのみを目的とする利用はほとんど見られなくなりました。

しかし契約の一つずっを個別に管理する指定単の仕組みは、年金信託など社会福祉関係商品にいかされていますし、金融自由化の進展や経済情勢の変化により、指定単にふさわしい新商品の開発も期待されるところです。

研究と評論

さてデイトキーパーを目差すジャーナリストにとっては科学的方法に基づく、客観的報道が第一の機能であった。しかしいかなる社会においても意見の主張、あるいは評論を欠いたジャーナリズムは、存在しないであろう。ゲイトキーパーを目差すジャーナリズムにおいても、客観的報道とともに評論は、欠くことのできない重要な分野を構成している。考えてみると、私自身今日まで研究と評論という二つの分野に足をかけて生きてきた。研究者の生活と評論家の生活とは、そもそも矛盾しないものなのだろうか。

私自身この問題を考えることになったのは、一九七五年六月、「東京新聞」などに掲載される論壇時評を、担当することになったときである。論壇時評とは、総合雑誌の主要な論文を取り上げる批評欄である。一口に月刊雑誌の批評欄といっても、月刊誌に掲載される論文の数は多い。それにこれらの論文の著者は親しい友人とまでいかなくても、互いに面識のある人が多い。学会の関係もある。そこで自然多くの評者は、できるだけ多くの論文をとりあげて多くの著者の顔を立て、同時に適当にこれらの論文をほめてお茶をにごすのが習慣になっていた。当然読者が読んで、おもしろい批評欄ができるわけがない。そのため私は論壇時評などはそれまでほとんど読んだことがなかった。

そこで論壇時評を始めるに当って私は第一に少なくとも論文の著者よりは、読者を大切にしようと思った。つまり著者や編集者に気がねした内輪ぼめの批評では、百万を単位に数えなければならない新聞の読者に、いかにも不公平だと思ったのである。そこで私はたとえば論壇時評には当時とり上げられたことのなかった、「文芸春秋」の論文を積極的にとりあげた。

その頃の「文芸春秋」は言論界のタブーになっていた問題を次々にとりあげて、部数も百万台に向って、どんどん伸びていた。私はまた週刊誌やサトウーサンペイ氏の漫画なども取り上げた。固い雑誌論文が、遠慮して明らかにしないような批評を、週刊誌やサトウ氏の漫画は、ズバリと述べている場合が多かったのである。また私は時評を書く前には、毎月必ず外国の雑誌をまとめて読み、日本の論壇が避けていた問題や視点も、とり入れることに努めた。

貸付信託の現状

貸付信託は昭和二十七年六月から始まり、当初は二月ごとに募集していましたが、現在では毎月募集を行い、五日および二十日に締め切(設定)つています。貸付信託の伸びは順調で、募集を始めてから六ヵ月後の昭和二十七年末には総額九十二億円にすぎなかったのが、五十六年七月には二十兆円となり、六十年二月には三十兆円を突破しています。

この間、貸付信託をより魅力あるものにするとともに、事務合理化にも寄与するよう何度か商品の改善が進められています。最近では、五十二年三月に自動継続の取り扱いが、五十六年一月には信託総合口座(個人を対象として、普通預金と貸付信託および当該貸付信託を担保とする当座貸越を一冊の通帳にセットしたもの)が、そして同年六月からは、前述した収益満期受取型(愛称「ビッグ」)が発売されています。マル優枠の三百万円まで元本を預け入れても収益金にはいっさい課税されない預け入れ元本方式を採用したビッグは、金利選好の高まりを背景に残高を大幅に伸ばしています。

このように貸付信託がどんどん伸びてきたのは、インフレも収まって国民の生活にだんだん余裕が出てきたことにもよりましょうが、なんといっても、いままで貸付信託の配当率がほかの金銭信託や預金よりずっと利回りがよかったことによります。

このようにして集められた貸付信託のおカネは、初めは電源開発に三割以上貨し付けられ、その他のおカネも大部分石炭、鉄鋼などの重要産業への貸し出しに限られていました。しかしこれら重要産業の設備も整ってきましたし、日本経済が戦後の復興期から高度成長へと進むにつれて、より広い分野の資金需要に応ずることが望ましいとされて、だんだん貸し出し先の幅を広げてきました。

そして、その後さらに産業構造の変化、資金需要の多様化が進展し、これに対応する形で昭和四十六年には貸付信託法の一部改正が行われ、融資対象は「国民経済の健全な発展に必要な分野」でさえあれば規制はなくなりました。

守られなかった「ハーヴェイーロードの前提」

いまさら言ってみても取り返しがつかないことだが、「規律」をわきまえた「正気」の銀行・金融機関(および企業・個人)が、少しは存在して、事態に影響力を及ぼすことが、はだしてできなかったものだろうか。だが、潜在的には存在した「正気」が背後に退き、まったく影を潜めてしまうのが、まさにバブルのバブルたる所以だろう。

余談にわたるが、大学で教えていたころ、学生たちの就職行動を、すぐ横で観察していた私は、都銀(都市銀行)の求人活動のお行儀の悪さを見て、しばしば腹に据えかねたものである。求職側すなわち大学での教育への混乱を避けるために、求人側つまり企業側は、日経連が中心になるなどして、「協定」を結んでくれるのがつねである。ところが、その「協定」を破って真っ先に飛び出すのは、毎年決まって都銀だった。

しかし、考えてみれば、金融システムの安定性は、一国の経済にとってもっとも基礎的なもので、その意味では、道路や鉄道などと等しくインフラである。それにあずかるかぎりにおいて、銀行の仕事には明らかに「公共性」かおる。そして、そういう大事な仕事を担当する銀行にとって、ほとんど唯一の貴重な資産は、すぐれた人材だろう。それを確保するために、銀行がルールに違反してまで狂奔するのも、ある程度はやむを得ないかもしれないと考えれば、かろうじて立腹を抑えることができなくはない。私は、仕方がないからそうしていた。

しばしば指摘される他業種と比較しての銀行員の給料の高さにしても、それを正当化するためには、同じところに論拠を求めざるを得ないだろう。そういう意味で、世が銀行に寄せていた信頼・尊敬の念を、バブル時の銀行の行動は、木っ端微塵に粉砕してしまった。都銀の行員と言えば、かつてはサラリーマンのなかでもエリートであり、サラリーマンの代表・典型だというイメージがあったが、それもいまはすっかり色槌せてしまった。

ついでにいうと、バブル時の金融機関の行動について、それは政府・大蔵省の銀行行政がこれまで取ってきた「護送船団方式」が悪いのだ、という議論がさかんに行われている。この言葉は、銀行・金融機関のことを議論するとき、近年ほとんど誰もが口にする。しかし私は、がりに「護送船団方式」がなかったとしても、バブル時の金融機関の行動は、大差がなかったのではないかと考える。

銀行行動の積極化

不動産業の土地投資は、80年代後半に急増した。この間の不動産業の所要資金81兆5,000億円のうち、約4分の3にあたる62兆3,000億円が銀行からの借入れによって賄われた。これを銀行の側から見ると、銀行の不動産業への貸出は、85年度から89年度にかけて年率19.9%で増加した。これは総貸出の年平均伸び率9.2%を大幅に上回り、その結果総貸出に占める不動産業向けシェアは84年度末の7.6%から、89年度末の9.2%に高まった。

この時期、ノンバンクは銀行以上に不動産融資に積極的であった。ノンバンクは元々金融機関の貸出を補完し、新しい資金需要に対応するものとして重要な役割を果たしてきた。金融機関が大口融資規制、店舗規制などの様々な営業上の規制を受けているのに対し、ノンバンクに対する規制は極めて緩やかであった。このため、80年代後半には金融機関の貸出を補完するだけに止まらず、ややもすれば安易に、かつ他社に追随して融資を拡大する例が見られた。

この時期、ノンバンクの融資業務は急激に拡大している(85年度末22兆円・89年度末80兆円)。貸付金の内容を見ると、事業者向けが全体の9割弱を占め、また、不動産業向けが約4割にのぼる。銀行は、ノンバンクの資金の約8割を供給しており、ノンバンクの積極的活動を資金面から支えていたといえる。

85年度から89年度にかけての銀行のノンバンク向け貸出は総貸出の年平均伸び率9.2%を大幅に上回る年率20.7%で伸び、総貸出に占めるノンバンク向け融資シェアは84年度末の10.2%から、89年度末の20.7%に高まった。

最近アメリカで、大手ヘッジファンドLTCMの破綻が話題になった。これを契機に明らかになったのは、好調を続けてきたように見えるアメリカの銀行の融資対象として、ファンド向けファイナンスのウェイトが高くなっていることであった。これはバブル期の邦銀の融資がノンバンクを通じた安易な「卸売り金融」になっていたのと通じるところがある。

食料商品化率の低迷

食料の国家買付量を引き上げようと、国家が統制を強化すればするほど商品化食料は逆に減少し、それがゆえに国家は食料への統制をますます強化せざるをえなかった。農業集団化を求める党とこれを忌避する農民行動が、因となり果となって、食料生産と食料国家買付量を低迷へと向かわしめたことになる。

1958年、1960年の食料商品化率の高まりは明らかに異常であり、これは毛沢東時代の農政の悲劇を典型的に示すものであった。狂気の人民公社運動の過程で、増産を競い合う人民公社間、生産隊間で現実の生産量をはるかに上まわる「水増し」報告があとをたたず、この虚構の数値をベースに国家買付量の決定がなされた。この決定にもとづいて強制買付を余儀なくされた農民は生存維持を図ることもかなわず、大量の餓死者が発生した。

食料商品化率の上昇には明らかな上限があった。その上限をなぞったものであったとみていい。市場にだしうる食料の余剰を生みだすことは、毛沢東時代の、農民に対する苛烈な国家的搾取によっても、なおきわめて困難な課題であった。

食料商品化率は都市労働力量を決定し、したがって工業拡大の速度を制約する。開放経済を前提とし、かつ工業製品の国際競争力が強いのであれば、輸出外貨をもって輸入した食料により、この制約を解くことは可能である。NIESや多くの先進工業国がそうである。しかし、往時の中国の工業化段階はとうていそこまでいたってはおらず、加えて「自力更生」による閉鎖経済体系が政策的にも選択されてきた。

このような状態においては、食料商品化率の低迷は工業停滞とリンクせざるをえなかった。中国は、人民公社機構を通して農業余剰を権力的に吸引し、もって重工業化を進めるためのシステム自体は、これを「みごとにも」つくりあげた。しかし、肝心の「市場化可能」な農業余剰の創出には、まことに不十分な成果しかあげることができなかったのである。