守られなかった「ハーヴェイーロードの前提」

いまさら言ってみても取り返しがつかないことだが、「規律」をわきまえた「正気」の銀行・金融機関(および企業・個人)が、少しは存在して、事態に影響力を及ぼすことが、はだしてできなかったものだろうか。だが、潜在的には存在した「正気」が背後に退き、まったく影を潜めてしまうのが、まさにバブルのバブルたる所以だろう。

余談にわたるが、大学で教えていたころ、学生たちの就職行動を、すぐ横で観察していた私は、都銀(都市銀行)の求人活動のお行儀の悪さを見て、しばしば腹に据えかねたものである。求職側すなわち大学での教育への混乱を避けるために、求人側つまり企業側は、日経連が中心になるなどして、「協定」を結んでくれるのがつねである。ところが、その「協定」を破って真っ先に飛び出すのは、毎年決まって都銀だった。

しかし、考えてみれば、金融システムの安定性は、一国の経済にとってもっとも基礎的なもので、その意味では、道路や鉄道などと等しくインフラである。それにあずかるかぎりにおいて、銀行の仕事には明らかに「公共性」かおる。そして、そういう大事な仕事を担当する銀行にとって、ほとんど唯一の貴重な資産は、すぐれた人材だろう。それを確保するために、銀行がルールに違反してまで狂奔するのも、ある程度はやむを得ないかもしれないと考えれば、かろうじて立腹を抑えることができなくはない。私は、仕方がないからそうしていた。

しばしば指摘される他業種と比較しての銀行員の給料の高さにしても、それを正当化するためには、同じところに論拠を求めざるを得ないだろう。そういう意味で、世が銀行に寄せていた信頼・尊敬の念を、バブル時の銀行の行動は、木っ端微塵に粉砕してしまった。都銀の行員と言えば、かつてはサラリーマンのなかでもエリートであり、サラリーマンの代表・典型だというイメージがあったが、それもいまはすっかり色槌せてしまった。

ついでにいうと、バブル時の金融機関の行動について、それは政府・大蔵省の銀行行政がこれまで取ってきた「護送船団方式」が悪いのだ、という議論がさかんに行われている。この言葉は、銀行・金融機関のことを議論するとき、近年ほとんど誰もが口にする。しかし私は、がりに「護送船団方式」がなかったとしても、バブル時の金融機関の行動は、大差がなかったのではないかと考える。