食料商品化率の低迷

食料の国家買付量を引き上げようと、国家が統制を強化すればするほど商品化食料は逆に減少し、それがゆえに国家は食料への統制をますます強化せざるをえなかった。農業集団化を求める党とこれを忌避する農民行動が、因となり果となって、食料生産と食料国家買付量を低迷へと向かわしめたことになる。

1958年、1960年の食料商品化率の高まりは明らかに異常であり、これは毛沢東時代の農政の悲劇を典型的に示すものであった。狂気の人民公社運動の過程で、増産を競い合う人民公社間、生産隊間で現実の生産量をはるかに上まわる「水増し」報告があとをたたず、この虚構の数値をベースに国家買付量の決定がなされた。この決定にもとづいて強制買付を余儀なくされた農民は生存維持を図ることもかなわず、大量の餓死者が発生した。

食料商品化率の上昇には明らかな上限があった。その上限をなぞったものであったとみていい。市場にだしうる食料の余剰を生みだすことは、毛沢東時代の、農民に対する苛烈な国家的搾取によっても、なおきわめて困難な課題であった。

食料商品化率は都市労働力量を決定し、したがって工業拡大の速度を制約する。開放経済を前提とし、かつ工業製品の国際競争力が強いのであれば、輸出外貨をもって輸入した食料により、この制約を解くことは可能である。NIESや多くの先進工業国がそうである。しかし、往時の中国の工業化段階はとうていそこまでいたってはおらず、加えて「自力更生」による閉鎖経済体系が政策的にも選択されてきた。

このような状態においては、食料商品化率の低迷は工業停滞とリンクせざるをえなかった。中国は、人民公社機構を通して農業余剰を権力的に吸引し、もって重工業化を進めるためのシステム自体は、これを「みごとにも」つくりあげた。しかし、肝心の「市場化可能」な農業余剰の創出には、まことに不十分な成果しかあげることができなかったのである。