研究と評論

さてデイトキーパーを目差すジャーナリストにとっては科学的方法に基づく、客観的報道が第一の機能であった。しかしいかなる社会においても意見の主張、あるいは評論を欠いたジャーナリズムは、存在しないであろう。ゲイトキーパーを目差すジャーナリズムにおいても、客観的報道とともに評論は、欠くことのできない重要な分野を構成している。考えてみると、私自身今日まで研究と評論という二つの分野に足をかけて生きてきた。研究者の生活と評論家の生活とは、そもそも矛盾しないものなのだろうか。

私自身この問題を考えることになったのは、一九七五年六月、「東京新聞」などに掲載される論壇時評を、担当することになったときである。論壇時評とは、総合雑誌の主要な論文を取り上げる批評欄である。一口に月刊雑誌の批評欄といっても、月刊誌に掲載される論文の数は多い。それにこれらの論文の著者は親しい友人とまでいかなくても、互いに面識のある人が多い。学会の関係もある。そこで自然多くの評者は、できるだけ多くの論文をとりあげて多くの著者の顔を立て、同時に適当にこれらの論文をほめてお茶をにごすのが習慣になっていた。当然読者が読んで、おもしろい批評欄ができるわけがない。そのため私は論壇時評などはそれまでほとんど読んだことがなかった。

そこで論壇時評を始めるに当って私は第一に少なくとも論文の著者よりは、読者を大切にしようと思った。つまり著者や編集者に気がねした内輪ぼめの批評では、百万を単位に数えなければならない新聞の読者に、いかにも不公平だと思ったのである。そこで私はたとえば論壇時評には当時とり上げられたことのなかった、「文芸春秋」の論文を積極的にとりあげた。

その頃の「文芸春秋」は言論界のタブーになっていた問題を次々にとりあげて、部数も百万台に向って、どんどん伸びていた。私はまた週刊誌やサトウーサンペイ氏の漫画なども取り上げた。固い雑誌論文が、遠慮して明らかにしないような批評を、週刊誌やサトウ氏の漫画は、ズバリと述べている場合が多かったのである。また私は時評を書く前には、毎月必ず外国の雑誌をまとめて読み、日本の論壇が避けていた問題や視点も、とり入れることに努めた。