日本独特の親米路線の形成

日本の戦後外交の特徴を考える上では、敗戦後の日本が事実上アメリカ占領軍の単独支配下におかれたことが、その後の日本の進路に決定的な影響を及ぼした、という事実の重みを噛みしめる必要がある。

日本同様占領軍の支配の下にかかれたドイツは、アメリカに加え、イギリス、フランス、ン連によって監視されたことにより、東西分裂の悲劇を経験する一方、西ドイツ国内の民主化という点では、アメリカの一存で安易な妥協をおこなって中途半端な形でか茶を濁すというような結果を招かなかった。これに対して日本では、当初からアメリカの占領支配の円滑な遂行という名の下に、天皇制の維持が早々と打ち出され、民主化には大きな制約が加わることとなった。

しかも大戦後次第に明らかとなった米ソ対決の冷戦構造の下で、1950年に朝鮮戦争が勃発(6月25日)すると、アメリカは、アジアにおける反共戦略の確立に邁進した。その一環としてアメリカは、日本との全面講和を主張する一部連合国の反対を押し切って、対日平和条約による日本の独立回復と、日米安全保障条約による日本の基地化、反共・反ソ世界戦略をおし進めた(両条約はともに、署名1951年9月8日、発効1952年4月28日であり、両者が一体として考えられていたことを忘れてはならない)。

また、朝鮮戦争に際して中国が北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)を支援して参戦(1950年10月25日)すると、アメリカは台湾に逃げた国民党政権への支持を強め、日本政府は、アメリカの強い働きかけを受けて、平和条約と安保条約の発効日に日華平和条約に署名した(発効は1950年8月5日)。このように、日本の戦後外交は、その出発点から、アメリカの強い影響の下におかれていた。

さらに重要な事実は、朝鮮戦争の勃発を契機に、日本国内でレッド・パージが開始され(7月以後)、東京裁判で判決を受けたA級戦犯重光葵をはじめ、多くの戦犯(のちに首相になった岸信介を含む)や戦争責任により公職を追放された者に対する追放解除が1950年10月以後進められ、その多くが保守の側に立って政治活動を再開したことである。戦後の保守政党に一貫して流れる反共親米路線は、このような内外の情勢の変化という背景の下で理解されるべきである。また、保守政党に今日まで根強く残る非民主主義的な体質も、戦前からの人的、思想的つながりを考えれば、明確に理解できるところである。

私たち日本人はそれほど自覚していないが、戦後日本外交が、戦前の「鬼畜米英」を叫んだ対米対決路線から180度転換して親米路線に転換したことは、その後次第に定着する「変わり身の早い日本、日本人」というイメージを外国に与えた戦後最初の事例である。そのことはともかく、「鬼畜米英」を叫んだ戦前の保守勢力が、世界にもほかに例をみない徹底した親米路線を遂行する担い手へ衣更えしたことが、その後今日に至る日本外交の基本的性格を形作ったことはよく知られている。