四万以上の自助グループが活躍

これらのすべての生活の土台を支える公的な政策は、市民たちの多くの「自助グループ」によって支えられ、監視され、生かされているといっても過言ではない。たとえばグラウエーパンター(グレイーパンサー)という名の老人グループがある。年金や、老人ホームや、デイケアーセンターのことなど、次々に政府に要求を出し、議会へのロビー活動もする。お互いに助けあい、情報を交換し、老人ホームや病院のサービスの苦情受けつけもしていて、月に一度、大学の食堂に集まって、グラウエーパンターの会員たちみなで食事をしたり、コーラスをしたり、話し合ったり、デモに出かけたりする、なかなか活発なグループである。

日本では、自助、というと、だれにもたよらずに自分で自分の生活を責任もってやること、と解されているが、西ドイツでは、グラウエーパンターのような市民の集まりを、自助グループと言う。公的な補助金を出させるが運営や活動は自分たちでする(その方がお互いに本当に何か必要かよくわかるから)というのが自助であった。つまり自助とは公的権力に対抗して市民相互で助け合った歴史から生まれ、自分たちが払った税金は、当然、返してもらう、という精神に立っている。

このような自助グループは、ベルリン自由大学の社会学の教授が把握しているだけでも四万以上もあり、問題別に、女性、青少年、老人、教育、外国人差別、障害者、住宅、健康、失業者、環境などのグループが公的補助金をひき出しつつ活動している。それが民主主義の不可欠の柱になっているという現実に、民主主義の実体をみせつけられたような気がした。そして日本の民主主義社会が空洞化している理由も、よくわかった。

その他、市民の募金によって自分たちでビルを買いとり、そこで文化学習活動をしている、いわゆるコム(KOM)の一種が、西ベルリンにもある。メーリングホフと呼ばれ、大学入学資格がとれる講座もあるし、いろいろな学習の時間割が組まれて、大学生も、高校を卒業しなかった若者も、主婦や労働者たちもここに集まる。演劇、映画のホールもあるし、診療所、図書館、出版活動、食堂、第三世界の生産物販売など活発な自助活動をつづけている。市が主催する市民大学も盛んで、地下鉄の駅には、講座案内が貼ってある。日本語の講座もあった。それらの講義のしめくくりには、勉強したことを身につけるために講師ともども現地旅行もする。

老人へのケアに話を戻すと、盲目の老人たちを動物園につれていって、動物を抱かせたり、湖の船旅や、サイクリング、バス旅行、クリスマスには一流の音楽家を招いて、老人ホームでも、市の公会堂でも、バイオリンやピアノの演奏、ダンスやオペラなど、ともかく多彩な老人のための催しがある。とくにホームの老人には、サンタクロースが来て、豪華な夕食の席で一人ひとりにプレゼントをわたし、肩をたたいて元気づける。

身につけるべき技術と情報

実務家は、自らの理念や思想と時代の激変との相剋、ジレンマに引き裂かれる宿命をもっているが、こうしたことに耐えていくには、まず第一に技術的なものは徹底的に身につけなくてはならないだろう。新しい情報や新しいメディアに対して、はじめから反発していては実務家としては立ち行かない。

マルチメディア、コンピュータ、パソコン、インターネットといったカタカナ語を聞いただけで拒否反応を示す人がいるが、やはり改める必要があろう。なぜなら、情報の分野では、日本はいま大変遅れているといっていい。とりわけソフトの分野、メディアの分野は、決して自慢できる状況ではない。したがってこの分野の技術は、徹底的に身につけ、追いつくことが必要だ。個人で身につけるか、知識としてそうするのかはさておき、結果として、組織全体が常に世界の動きに対応できるようにしておかなくてはならない。

実はこうした一種の技術主義は、明治以降の日本には伝統的にあった。そして、欧米発の技術を身につけ、自家薬箇中のものにしたからこそ、日本経済の発展があったのである。その意味で、私は技術に対するレスペクト(尊重)は捨ててはいけないと思っている。一般に組織が硬くなってくると、スペシャリストあるいは特別な技術を軽視する傾向が出てくるものだ。しかし、それは危険であろう。

第二に、情報に対してもっと敏感になる必要がある。グローバリゼーションというのは同時に情報革命でもあって、情報そのものが非常に重要な要素になってきている。ビジネスで優位に立つかなりの部分は、人と違う情報をもっていることによって可能になる。コンピュータのソフトウェアもたしかに情報だが、それだけではなく、国際間の生の情報が重要になってきた。

例えば中国でどういうことが行われているか、中央アジアでどういうことが起こっているのか、あるいは何が起きようとしているのか、そういうことをすべて知ったうえで、その情報を使い分けながら仕事をすることが不可欠になってきている。とりわけ国際金融の場では、こうした情報の価値がどんどん増している。そして、情報の価値を選別するには、実は組織の中に多様性を育てていかなくては難しい。また、そうした多様な人間をかかえられるような組織にしていかないと情報は入ってこない。

日本人はとりわけ嫉妬心が強い

そうした有事のために日本人幹部を高給で飼っておくというのである。いつかクビを切られるその日のために数年、あるいは数ヶ月、飽食しながら悠々自適の待遇を得られる。それを良しとする人もいるかもしれないが、多くの人がしり込みをするのではないだろうか。前置きが長くなったが、そうした外資系の特徴を踏まえて、外資系企業に転職あるいは就職して長く勤めるための心構えの一端を紹介したい。もちろんここで述べる処世術と全く逆をやって大成功する道もあるだろう。しかしその道が100人に1人のものだとすれば、残りの99人のための道をお知らせすることは悪いことではないはずだ。

この多数派の道を一言で要約すると失に述べた「三つのず」、三ずの道である。三途の川を連想するようで不気味だと思われる方は、三つのべからずと覚えておいて頂いてもよいだろう。その「ず」とは、「めだたず、おくれず、にくまれず」である。サバイバルの法則、外資系は業績評価が公正で、際立った成果を上げたもののみが報われると思っておられる方には意外感があるだろうが、短期で業績を上げ、ほかの外資系(あるいは日系)へ再転職する道を選ばない限り、「めだたず」ということは重要なサバイバル(生き残り)の要諦である。まず、「めだつ」ことの弊害から述べよう。

外資系企業にもゲマインシャフト的な要素があると先に述べた。嫉妬と羨望が渦巻く社会でもあると言及した。「めだつ」ことは、まさにこの「嫉妬と羨望」の渦に巻き込まれることである。それでは外資系では、何をすればめだつ結果になるのだろうか。際立った業績を上げる、上司の覚えがめでたい、大きな仕事を成し遂げた、マスコミに頻繁に登場する、在日代表(外国人であればなおさら)から特別に目をかけられている、などが挙げられる。これがどうして悪いのか。外国人もそうだが、日本人はとりわけ嫉妬心が強い、女性だけでなく男性もだ。

表面はにこやかに仕事ぶりを褒めていても、内心は何を考えているか分かったものではない。相手が上司ならば、自分に取って代わるのではないかと疑心暗鬼となっているかもしれない。部下は部下で自分との距離がひらくことに焦りを覚えているかもしれないし、同僚は取り返しのつかない差がついたと妬んでいるかもしれない。他人の嫉妬を逆にエネルギーに変えることができるほどの人は別として、嫉妬ほど対処に困る感情はない。自分を彼らのレベルに低めて、「たいしたことはないよ」と慰めても、「おためごかしはいらない」と意図をすぐに見透かされてしまう。超然としていても生意気だと思われ、陰に陽に足を引っ張られる。だから一番よいのは、嫉妬を招かないことである。つまり、めだたないのが最良なのである。

それでは平均的で凡庸な社員でいれば安心なのだろうか。実はそれでは駄目なのだ。平均的社員にはそれだけの価値しかない。外資系企業は業績悪化に伴いよく解雇を行なうが、平均的社員はそれに対抗できない。唯一対抗する手段は、平均的でないほど企業に留まることだ。外資系では会社都合で解雇される場合、勤続年数に応じた割り増し退職金が支給される。日本企業の退職金制度ほど不公平ではなく、例えば5年勤めていれば5ヶ月、10年なら10ヶ月の割り増しがつく。日本企業の場合は20年以上勤めると幾何級数的に退職金が増えるが、それより少ないと分の悪い退職金しかもらえない。それゆえに20年も1つの外資系企業に勤めていると、会社にとってその人を解雇するのは大変なコストを伴うことになり、クビを切りにくいのである。

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診療のウェイトを病院から診療所にする

スウェーデンはこの約一世紀にわたって病院中心主義を貫いてきた。一定の人口(四万〜五万人)にひとつの病院をつくり、それを全国的に整備して頂点に大学付属病院を位置づけ、病院の医療費は、県が県税を徴収してまかなう(県税の八〇パーセントが病院医療費に使われていた)という方式で整備し、診療所は例外的に存在するといった完全な病院中心で、この整備は一九六〇年代には終わっていた。

ところが、この方式では予約後、診療をうけるまでの待ち時間が長すぎるという国民の不満が強く(白内障手術などは二年間も待たされた)、もうひとつは、病院の医師を選択することができない(病院では外来も入院もすべて輪番制で、担当の医師は日時によっていっもちがっていた)ために、医療に必要な医師と患者の人間関係が成立しなかった。さらに、大病院では検査を厳重に行なうので医療費も嵩む。

こういったことから、一九八〇年代に入って、人口一万〜二万人に一カ所程度の診療所を設置し、地域の住民は、まず診療所で診療を受け、重症の場合は大病院に紹介するという改革を行ない、一九九三年からスタートしている。イギリスのファミリー・ドクター制度に似た方式だが、医師への支払いは人頭割でなく月給、医療費の支払いは出来高払いで、その支払いを県からコンミューン(市町村)に移行させている。

地域の住民は診療所での自己負担は一〇〇クローネであるが、紹介なしに大病院に行くと三〇〇クローネ取られる。実際には診療所に来る患者の八パーセントが病院に紹介されているという。この診療所は日本の開業医より規模が大きく、ここから訪問看護を行なっている。

入院日数を減らすことが患者にとってプラスになる。つまり退院することそのものがリハビリになるとの考え方で施策を展開している。一九五〇年代のスウェーデンの平均入院日数は一四・八日だったが、現在は六・六日(内科七・五日、外科五・九日)に短縮されている。病床数は一九七〇年には五万床だったのが一九九〇年には三万五〇〇〇床に減っている。病床利用率は九〇〜九五パーセントで、入院回数は逆に一九七〇年の八五万回が、現在では一六八万回にふえている。入院日数はぐんと減って、アメリカのように即日退院がふえた。ただ通院(外来)は減っていない。

偉大な戦争のヒーロー

イギリス大使としてこうした誤った政策に与したために、ジョゼフーケネディは、政治家としての一生を棒に振ることになった。そして彼は、心密かに抱いていた大統領になる夢を自分の息子に託さざるをえなくなった。後年、息子が大統領選に出馬したときにも、彼は表舞台には出られずに、陰で糸を引いていなければならなかった。

しかもジョゼフは、自分がそれほどまでの犠牲を払って食い止めようとした戦争で、長男のジョゼフージュニアを失ってしまうのである。長男のジョゼフ・ジュニアは、弟のジョンーケネディと同じように目鼻だちの整った美男子だったが、弟のように病弱ではなく、健康な身体に恵まれていた。九人兄弟の長男としての責任感も強く、将来はアメリカの大統領になると公言していた。母親のローズーケネディは、子供たちの思い出を綴ったその著『わが子ケネディ』(人前正臣訳)のなかで次のように言っている。

「私は大家族を持つ親たちに、一番上の子供に最も熱心に働きかけるよう強くアドバイスしたい。というのは、一番上の子供の方向に下の子供たちも従うからである」そんな息子を失ったことは、ケネディ家にとっては取り返しのつかないほど大きな不幸だった。

ジョゼフージュニアは、一九四一年に志願して海軍に入隊していた。ジュニアは、ジャクソンビルで飛行機の操縦訓練を受けたあとヨーロッパ戦線に送られ、二回戦闘に参加した。そして、五十回出撃すれば本国勤務に移されるという条件をすでに満たしていたが、彼は、荷物をまとめてアメリカに帰ろうとしていたときに、危険このうえない最高機密の任務のために、軍がパイロットを探しているという話を耳にした。

ジュニアはすぐにその任務に応募した。その機密の任務とは、暗号名をアフロデイーテといい、第二次世界大戦の末期に、ドイツ軍がイギリスに向けて発射した無線操縦のロケット弾VIロケットの発射基地を爆破するという任務だった。ジュニアの任務は、連合軍側の遠隔誘導ミサイルを積んだ飛行機を操縦してコースに乗せ、ミサイルが母艦からの遠隔操作に切り換えられたところで、パラシュートで飛行機を脱出するというものだった。もしこの任務に成功していれば、彼は、史上最大の作戦と呼ばれたノルマンデイ上陸作戦を指揮したアイゼンハワーほどではないにしても、あるていどは偉大な戦争のヒーローになれたぱずだった。

溶原変換

常在菌として咽頭粘膜に安住していた毒素を作らないジフテリア菌が、毒素を作るようになってジフテリアという病気を起こすと、それまでの安定した粘膜という環境の状態は激変する。患者が死亡すれば、同時にそれまでジフテリア菌が依存していた存在環境も失われる。逆に患者が回復して、いわゆる免疫を獲得したとしても、やはりジフテリア菌はそのヒトの咽頭粘膜には安住しにくくなる。いずれにしても、それまでの安定した存続は望めなくなる。もし同一の宿主における安定した存在を願うとすれば、ジフテリア菌は毒素を作らないほうがよい。すなわち毒素遺伝子を保有したペーターファージが、プロファージとして感染していないほうがよいということになる。

少なくともジフテリア菌にとっては、ジフテリアを起こすことが何にもまして必要であるということはなさそうである。この意味でも、ジフテリアという病気を起こす主役はジフテリア菌ではなくて、べーターファージであるということになると思う。今までの話はジフテリアという病気の、いわば正体を知るためのものだったが、このようにファージが、分子生物学的には必ずしも必要とされない遺伝子を保有している例はいくつも知られている。

沸き立つユーラシア

二〇〇〇年に発足したユーラシア経済共同体(ロシア、ベラルーシカザフスタンウズベキスタンキルギスタジキスタン加盟)は、これら各国と隣接地域の「統一経済圏」創設をめざしているが、そうしたユ上フシア概念を機構名称としている。ユーラシア大陸はロシアを含むアジア大陸とヨーロッパ半島(ユーラシアの地図を見れば、ヨーロッパは大陸ではなく、まさに左端にくっついた半島だと分かる)の全体を指している。だが、そうした旧来の理解を離れて、ここでは、ヨーロッパ半島を除いた全体を「ユーラシア地域」と考えたい。ヨーロッパは「近代」を生み出して世界史をリードしてきた特別な地域であり、それ以外の地域は非ヨーロッパとしての独白の歴史をもっているからだ。しかも、二一世紀の今日、まさにその独自の性格が注目に値するものになっているからでもある。

その「ユーラシア地域」が今、沸き立っている。「ユーラシア地域」は三〇〇年余にわたり、帝政ロシアと清が対立と力の措抗をはらみながら支配をつづけてきた。その基本的な構図は、ソ連中華人民共和国の時代になってもさして変わらなかった。両者による対立と緊張がつづいていたことで、この「地域」は政治的、経済的に分断されていた。否、「地域」そのものが成立していなかったのである。それを根底から揺るがしたのは、一九九一年一二月のソ連邦解体によるロシアの体制転換と中央アジアカフカース、ロシア各地に存在するチュルク(トルコ)系諸民族の独立・台頭、そして一九九〇年代から本格化した中国の「改革・開放」路線による、世界の工場化だった。

まず、国境の画定が先行した。七三〇〇キロにわたる中ソ両国の国境線は、モンゴルをはさんでユーラシアを貫く分断線だった。双方の領土要求がぶつかり合い、ユーラシア地域における緊張と対立の源だった。それが、ソ連ペレストロイカに続く解体と中国の「改革・開放」の進展のなかで一九九〇年代前半から、段階的に解決されていったのである。今日、中国・ロシア国境の四三〇〇キロ、中国とカザフスタンキルギスタジキスタン三力国との三〇〇〇キロの国境線は最終的に画定している。双方が承認する、法的に確認された国境線が確立されたのは、この地域では歴史上初めてのことだ。互恵の精神に立った双方の譲歩という「フィフティーフィフティ」戦略と、双方とも「敗者」にならない「ウィンーウィン(Win-Win)」戦略によるものである。

これによって、ユ上フシアに引かれている七三〇〇キロの国境地帯は、「緊張と紛争」の地帯から「安定と発展」のベルトに変身しようとしている。それは、一三−一四世紀の「パクスーモンゴリカ(モンゴル帝国支配による平和)」時代以来の状況である。その変化のなかで、国境を越える人と物の流れが、目覚ましい勢いで復活している。そして、中露国境貿易が活発化しノ甲国と中央アジア各国を結ぶシルクロードが甦っている。中露貿易、中国と中央アジア各国との貿易は、ソ連邦解体とともに急速に増えた。ユーラシア北部を走るシベリア鉄道、中国から中央アジア、ロシアを経てヨーロッパに至るユーラシア鉄道、上海から新疆ウイグル自治区を経て中央アジアそしてトルコに通じる高速道路などが整備されてきた。

ユーラシア西部からヨーロッパへと張り巡らされている石油・天然ガスのパイプラインも、ユーラシア東部へと建設されつつある。ロシアと中央アジアの石油・天然ガスは今日、東へ東へと流れようとしているのだ。インドと中国、インドとパキスタン、そして中央アジアとイランとの政治的・経済的関係も従来の対立・停滞からさまざまな問題をはらみながらも正常化、互恵の協力関係へと転換しようとしている。いまユーラシアに、注目すべきダイナミズムが生まれつつあるのだ。この沸き立つ「地域」を政治的・経済的にゆるやかに束ねているのが、上海協力機構(SCO‐Shanghai Cooperation Organization)だ。